昭和47年11月11日 朝の御理解
御理解 第20節
『此の方が天地金乃神様よりおかげを受けておる事を話しにして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。可愛いい者じゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言う事を聞かぬ子が一番つまらぬ。言う事を聞かぬ子は、親も仕方があるまいが。』
親の言う事を聞かぬ子は親も仕方あるまいがと、本当に親として此の様に寂しい事はない、悲しい事は無い、そう言う例えば実感、子供を持って合点してみる。親がいくら例えば言うて聞かせても それを聞かんもう仕方がない、是はもう仕方がないと言うても仕方がないでは済まされない、親の悲しさ親の寂しさである。そこで合点させよと仰せられますから、本当に私共が金光大神が天地金乃神様からおかげを受けられた事を、話しにして聞かすのぞと仰る。
言う事を聞かぬ子は、是非に及ばず可愛い者じゃと、この辺の所は教祖金光大神の信心がこう、新たな色彩と言うかね、その情感と言うかねえ、例えば縁なき衆生は度し難いのだと、言った様なプツッと切った様な物ではないですね。此処ん所を又その言う事を聞かん子でも後ろから親が祈っておる、願っておると言う物をここに感じますね、又時を待っておかげを受けるがよしと。親が祈っておるだから必ず又、私の言う事を聞く様に成る事に違いはない、と言った様な物をそこに感ずるね。
子供を持って合点せよ、本当に親が寂しいと思う悲しいと思う、是では子供の行く行く先々がどうなるだろうかと心配をする。その心の実感と言うものがですね、神様と私共の上に置き替えられて考える時にですね、神様に寂しい思いをさせてはおらんか悲しい思いをさせてはいないかと言う事になるのです。其処で是は信心の例えばない者、世の中に神様やら仏様やら御座るもんかと、まあ言う人達の上にもです、それはまあ仕方があるまいがと言う事ですけれども、そんなら信心を頂いておりましてもです、ね。
親だ子だと名乗りを上げておりながらもです、天地金乃神様と呼び親神様と言い、神様からは信者氏子と、例えば親よ子よと名乗り合うとってもです、ね。言う事を聞かんと言う所は、となるとどう言う事になるか、この人がここばいっちょおかげを頂くと、此処ばこうすると、もっと素晴らしいおかげになるのに、本当のおかげになるのにと、もう自分の殻の中に入ってしまって、そこから一歩も出ようとしない。
そこから一歩も動こうとしない親の言う事を聞かん、もう親である子であると言う事は分かっておる、けれどもその言う事を聞かんと言うのである。此処になって参りますと、私はもう沢山、ならお道の信奉者がおりましょうけれども、本当に数少ないと思うですねえ。親の言う事を聞くと言う信者氏子に、ならせて頂かねばならんなあ、でなからなければ神様を寂しい悲しい思いをさせるのだ。金光さまの信心頂いとるから、もう神様が安心して御座ると言う事では決してないのです。
又それとは反対に親の言う事を聞く、子供はこんなに嬉しい事はない、こんなに有難いと思う事はない、それにすぐ、おうと応えられると言う事。そこでやはり求められるのがやはり素直さなんですね、私共が聞きよる様であっても聞いてない事が有りますね。そう言う時には神様がほらほらとこう、気をつけて下さる。此処ん所はお前は一つ分からなければ、此処ん所を言う事聞いてくれなければと仰る所がある、ハツとそれに応えて親の方え方向を向ける、かえると言う、そう言う私は信心がね要ると思う。
高い所から低い所え水が流れる様に、実に自然にスムーズに流れて行く、まあそこに又高い所が有るとか、堰き止められるととか言う事があっても、まあそこでしばらく、まあよどんだ様な形になりましょうけれども、その高い所を廻って又低い所え流れて行く、私は信心をさせて頂いてです、こう言う所を一つ頂かないと、いわゆる私の助かりと言うものが無いと思うのです。
行く雲流れる水、と言う訳です、雲水行と言われる、もう風に任せてある、「善し悪しを捨てて起き上がり子法師かな」ここの所の境地迄は親の言う事を聞かせて頂いておると、私は分かると思う、又だから分からなければならないのです。金光さまの御信心はそこん所を一遍通らせて頂いてその先の所を教えられるのが、御神徳の世界です、ここ迄は例えて言うなら仏教なら仏教ででもそう言う心が開けて来る。雲水行と言うのは仏教の言葉ですよねえ。
「行く雲流れる水」、自然に逆らわない、高い所から低い所え水が流れる様に実にスムーズにながれて行く、そこに例えばせき止められましても、そこで水は段々たまってゆく、溜まって行くと、今度は又その堰なら堰を越えて又下の方え流れて行く。そう言う生き方が身に付いて来る、「ゆく雲流れる水」、それは決してあきらめと言った様な物では決してない、親様がそう言うて下さるからなのである。
親様がそれが一番助かる道ぞおかげを頂かして頂ける道ぞ、いやお徳を受けさせて頂く道ぞ、と言う事をです教えて下さるからなのです。私は合楽で御信心頂かれる方達が、一番親の言う事を聞くと言う事はそう言う事だと思う、神様任せと言う事は、ここでは親先生任せとこう。船は帆まかせ風任せ、どこの港に付かなければならんと言うのではない、神様が着けて下さる港え着かせて頂くのである。
そこには夢にも思わなかった様なおかげなんです。昨夜の月次際後の教話を引用するならです、それこそ鴨が葱を背負って来る程しのおかげなのです、そこから先なんです、しかも金光大神が天地金乃神様からおかげを受けられた事をと言う所にです、違って来る訳です此処からが。ね。御自身がおかげを受けておられる、そのおかげを受けておられる事を、話して聞かすぞと、だからそれをもう疑うて聞かんなら仕方がない。先生はああ仰るけれども、けれどもを付けたらしかたがない。
お互いが今その過程にあるもう本当に、ここでね高い所から低い所え、水が流れる様な気持ちにならなければ、もうやり切れない問題が沢山有るお互いには、自分が乗り越えて行こうごたる気がする、自分はここから廻れ右しようごたる気色がする。言うて分からせられるもんならば、して見せて解らせられるものならと、言う所が有るけれどもです、そこを言うなら、黙って受けて流して行く様におかげを頂いて行くと云う所。
そこん所をいわゆる、その時点時点を有難く受けて行く、いわゆる成り行きを大事にして行く、いやその事を、御事柄として受けて行くと、言う風に此処までは教えられる訳ですね。ですから此処ん所をですね、人間心を使わずに人間心を出さずに、此処ん所を神に心任せて行かなければならない。そう言う信心が身に付いて来る、そう言う信心が繰り返されて行く所に、お徳を受ける、ここはまあ金光大神の世界と思いますねえ。此の方が天地金乃神様からおかげを受けておる事を。
この辺の所はいわゆる仏教的思索からうまれた宗教は是から先が無い様ですねえ。天地金乃神様よりおかげを受けて居る事を、御自身がおかげを受けておられる事を話して下さる、だから其処ん所の、その基盤になるものは今も申します様に、神様に心任せて心安らかなおかげを頂くと言う事。今の様な事じゃいけんぞ、油断したらいけんばい、と例えば注意を受けた時に、ホッと例えばそこに気付かせて頂くその心が大事。
委ね任せる心、そこで私共が本気で限りなく美しゅうならせて頂くとか、本心の玉を研くとか、改まると言う事がなされなければならん。是は生まれ付きあの人は素直じゃからと言うのとは違うのだ、自分の心が本当に改まり、研き清めさせて頂く、その心がです。いわゆる自由自在な言うなら、自由無得の心とでも言うか、どう言う所にでも入って行ける、それは丁度水の正体の様なもの。
そこから私はもう本当にもう思いもかけない、素晴らしいいわゆるお徳の世界、其処にはおかげの世界に、入って行く事が出来るのです。私共が子供を持って合点せよと仰せられる様に、確かに子供を持って右が良いぞ左が良いぞと言うても、言う事を聞かんなら親でも仕方があるまいが、親の心の中は本当に寂しい、又それが大きな例えば問題であるならばある程、そう言う言う事を聞かんならこんな悲しい事はない、ハッキリこうする事が幸せになる道ちだと言うても、それを聞かんなら親でも仕方がない。
そう言う例えば実感でです、神様を寂しい思いをさせておる事はないか、悲しい思いをさせておる事はないか、と思うてみていよいよ神様の教えて下さる事を聞かしてもらう、徹底した姿勢を作らなければ出来ん。その基盤になるものはです、いわゆる行く雲流れる水、いうなら雲水行、やはり行ですから、それは大変まあ難しいと言や難しい、容易と言やこげん容易い事はないですね。
仰る通りしときゃよか、右ぞハイ左ぞと仰ればハイと言うときゃよか。けれども自分の我情がある我欲があるから中々それがハイと言えないだけの事。私は金光様でいや合楽で信心の稽古をなさる方達は此処ん所を本気で徹底して行く事だと思う。昨日高芝さんがお礼に出て見えた、それで今頃、綾部の家が兎に角大変忙しくて、お参りが出来んと言よりますからと言ってお届があった。
それで私が高芝さんあのー綾部さんに言うて下さい、忙しかから参らんならんとばいね、もう何日後に大変なおかげを受けなければならん事も有るのだから、忙しいから参らにゃならんとよ、その事を言うといて下さい。ゆうべお月祭に親子でお参りして来た。もうこのだから、そんで又なら忙しいのばってん又今朝も参って来とる。それをねお互いが又お参り出来なくなる、又無信心になるそこは行ったり来たりするけれどもそれはかまわんと思う、その都度に神様がホッとこう言うて下さったら。
それに直ぐ応えられる所の姿勢を根本的に作ってさえ置けば。何遍お気付けを頂いても、又は言うならばことずけをしても、それに返事のへの字もない様なね、こげん寂しい事はない、是は私と皆さんの場合でもそれなのだから、それが神様と皆様の場合は尚更切である。それは親と子の場合です、子供が言う事を聞かんなら親は仕方あるまいがと言うこの言葉は、仕方があるまいがと言う事はもう本当に寂しい悲しい親の是は言葉だと、思いますね、仕方がないと言やそれ迄である。
其処ん所をね私共は一つおかげを、」そう言う姿勢を作っておかなければいけない。二三日前から昨日も皆さんに申しました様に、私はあのー阿倍野の伊東先生のお話しを、泉南の先生がお話しておられる事の仲から、読ましてもらい、聞かしてもらって、もうとに角もう矢も楯もたまらん様な思いで、大阪行きをお願いさせて頂いた。それからどうしてもお許しを、ある事情の事を頂いて、お許しを頂かなかった、けさの御祈念中に「泉南教会行き」と言う事をを頂いた。
自分の思いで行くと言うのと神様の願いで行くのとは大変違って来る、昨日迄は私は自分でどうでもこうでも一遍、もう七十八歳になられる、何時どう言う事になられるやら分からん、そう言う素晴らしい先生に一遍、もう話しを聞く事はいらん只お目に掛かっておくだけでいいと思う。私は飛行機のキップが手に入れば今朝からもうそれこそ、もう直ぐ帰って来るもう、お目に掛かればそれでいいのである。
と決心させて頂いておる訳で御座いますけれども、私共のいかに例えばそれは素晴らしい事であっても自分の思いで、自分の我情でそれを行動したのでは、やはり我情は我情、自分の思いは自分の思い。けれどもそれは素晴らしい事であるなら思い詰める事が大事、私は三日間どうでも十日の月次祭が済んだらと、昨夜も丁度二時頃迄、若い先生方と話しておりました。もう本当に、今度はどうでもこうでもやらして頂きたいと思ったけれども、お許しを頂かんから、残念だと言うて休んだ
。自分のなら、我情は神様は通させて頂けなかったけれども、そこでもうスッキリ断念した。断念させて頂いた、所が今度は、神様の方から「阿倍野教会行き」とは仰らん「泉南教会行き」と頂いた。泉南教会にやらせて頂く、是は神様が行けと言うのである、だから私は行く事に腹を決めた、と言う様にですね、例えば、行く雲流れる水と言うのは、そう言う様な事。自分がどんなに行きたい行きたいと思うても、お許しを頂かなかったら、そこで待っておく以外はない、いやいけないぞと言われたら。
そこが待っとく以外はない、いやいけないぞと言われたら、もうそこで断念するのだ、その時点でです、それを持ち越さないのです、行きたいと言うその思いを、スキッと取ってしまう。今日改めて、今度は、神様の方が、神様の言うなら、お使いで行く様な感じでやらして頂く、只お目にかからせて頂きたい、そう言う一念で行く、又合楽の信心に何か一段と深さを、光りを頂ける事だろうと思うのです。
自分の言い分をどうでもこうでもと言うのではなくて、そう言う場合は神様がいけんと仰れば、泣く泣くでもハイと言うて断念する心と、そんなら今度はもう行けと仰れば、さっきから迄はでけんといよってから、もう行けと言われたっちゃ行かん、と言う様な事ではなくて、もうその時点を有難く受けて、そんなら行くと言う事になったらよい。用意しよって又そんなら神様が行くなと仰るかも解らん、そん時は又ハイと言うたらそれでいいのである、そう言う生き方を身に付けて行けと言うのですね。
どうぞ。